竹中平蔵さんが2020年9月23日にテレビ番組で提唱した
「国民全員に月7万円の支給」
「生活保護や年金が不要となり、それらを財源に」
「所得が一定以上の人はあとで返す」
といった「所得制限付きベーシックインカム」が波紋を呼んでいます。
社会保障、しいては福祉そのものに関わる大きな話題として、今回は「ベーシックインカム」と「自助」について、介護士としてどう考えているかをお話しします。
ベーシックインカムについて
そもそも「ベーシックインカムってなに?」というお話しからしていきます。
ベーシックインカム(英語:basic income)とは、最低限所得保障の一種で、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を定期的に支給するという政策。
ベーシックインカム ‐Wikipedia‐
簡単に言うと「国から毎月お金がもらえる制度」のことで、昨今では新型コロナウイルスの流行による緊急経済対策として国民に一律10万円の特別定額給付金を配ったのがベーシックインカムに近しいですね。
コロナ禍の厳しい現状では多くの人にとってありがたい給付だったと思いますし、今なお収束が見えない中で次の「特別給付」を期待する人もいるでしょう。
ただ、当然の話ですがお金というものは「湧いて出るもの」ではありません。
前回の特別定額給付金は「国債(国の借金)」を財源としていますから、今後国がその借金を返すために税収を増やす必要性が出てきます。
つまり「今お金をあげるから、未来に多めに(税金として)返してね」というのが本質です。
そうなると、国から渡されるお金であるベーシックインカムも同じように「財源」が必要になることが予測されます。
生存権保証のための現金給付政策は、生活保護や失業保険の一部扶助、医療扶助、子育て養育給付などのかたちですでに多くの国で実施されているが、ベーシックインカムでは、これら個別対策的な保証を一元化して、包括的な国民生活の最低限度の収入(ベーシック・インカム)を補償することを目的とする。
従来の「選択と集中」を廃止し、「公平無差別な定期給付」に変更するため、年金や雇用保険、生活保護などの個別対策的な社会保障政策は、大幅縮小または全廃することが前提となる。
ベーシックインカム ‐Wikipedia‐
またベーシックインカムを実現させるためには、現状の社会保障をベーシックインカム一つにまとめ、これまでの保障は廃止することが前提となります。
それは
「生活保護や年金をはじめとした社会保障がなくなり『ベーシックインカム』という現金給付一つにまとめられる」
ということですから、「お金はあげるから、あとは自分で何とかしてください」という「公的扶助の減退(≒自助の強制)」を意味します。
このようにベーシックインカムには、財源を原因とした「自助の強制」といった問題があることを覚えておいてください。
公的扶助について
公的扶助(こうてきふじょ、英語: Public Assistance)とは、公的機関が主体となって一般租税を財源とし、最低限の生活を保障するために行う経済的援助。
公的扶助 ‐Wikipedia‐
生活に困窮する者に、生活保護法に基づき国が最低限の生活の保障をし、自立を助けるシステムである。
生活保護法(せいかつほごほう、昭和25年5月4日法律第144号)は、生活保護について規定した日本の法律である。社会福祉六法の1つ。
生活保護法 ‐Wikipedia‐
生活保護法の目的は、「日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長すること」(第1条)とされている。
公的扶助は、「生存権(人間が人間らしく生きるのに必要な諸条件の確保を、国家に要求する権利)」と「国の社会的使命」について記した日本国憲法第25条を根拠に定められた生活保護法によって「最低限の生活を保障し、自立を助ける」よう、国によって行われるものです。
「あなたが自分の力で生きていけるよう国が支えていくよ」ということなのですが、これを「国は自分たちの生活を守って当然だ!」という風に解釈してしまうと、ちょっとした誤解が生まれます。
確かに「生存権」は憲法で定められた権利なので、要求すること自体に何らおかしなところはありません。そうした国民からの追及によって政治が改善されていくのは国家のあるべき姿です。
ただ、それは「自立」を前提にした話です。
自立とは、他の助けや支配なしに自分一人の力だけで物事を行うこと。ひとりだち。独立。
自立 ‐weblio辞書‐
「自分一人でやっていく」ことが「自立」であり、公的扶助は「あなたが自分一人でやっていけるよう支えていきますよ」という援助です。
つまり最初からそれを頼りにするものではないのです。
公的扶助はあくまで安全網(セーフティーネット)であって、本来なら「自分で生きる」という生物の前提から逃げ出していい理由にはならないのです。
もちろん様々な病気や障害などによって「自分の力では生きていないかのように見える」方々もおられます。
ただそれは「他人から見て自立していないように見えている」だけであって、真に「自分の力で生きようとしているか」は本人にしかわかりません。
わからないにも関わらず「この人は自分で生きようとしていない」と断罪する権利は誰にもないのです。
ここを間違えてはいけません。
つまりどのような人であれ生きている時点で「自分の力で生きている」ため、公的扶助を受ける権利がある、と考えられます。
ただ「自分から生きるのを諦めようとしている(最初から他者を頼りにしようとしている)」人は、他人から見たらそうとはわからないため同じように公的扶助を受けることができますが、自らを省みる点はあるかと思います。
公的扶助はあくまでも「自立を助けるシステム」なのですから。
自助について
今度は「自助」を見ていきましょう。
セルフヘルプ(英: self-help)、自助(じじょ)とは、専門家の助けを借りず、自身の問題を当事者で解決することである。
セルプヘルプ ‐Wikipedia‐
一言で言えば「自分のことは自分でやろう」です。
自分の問題なのだから他人に任せずに自分でやる。
それ自体は当たり前のことのように聞こえますが「自分でそう思うか」と「人から言われるか」は大きな違いです。
自分で「自助」が必要だと思ったとき。
その人は「自分のことは自分でやりたい」と思って自分の能力を高めるために努力します。
仕事で必要なスキルを身に付けたり、健康を維持したり、広く知識を学んだり。
自ら進んで行う「自助」はその人の成長を促すきっかけを与えます。
一方で、人から「自助」を言われたとき。
その人は「自分のことは自分でやりなさい」と強制されて従わされます。
仕事で必要なスキルを身に付けたり、健康を維持したり、広く知識を学んだり。
それら全部自分の意思とは関係なく人のためにやらされるため、意欲的にはなれません。
意欲的になれない以上、同じことでも「自分でそう思う」場合に比べてパフォーマンスが上がりません。
それがたとえ「人のために頑張りたい!」という人であっても、その前提が「人から言われて」いる以上は人の思惑に左右されざるを得ないため「自分でそう思う」人以上には成果を出せないのです。
強制される、従わされる、とは「自由がない」ということです。
そして自由がない以上「自分のことは自分でやる」というのは責務になりますから、「自分のことを自分でやっていないのはおかしい」という風潮を生み出していきます。
ところで、人はどこまで自分のことを自分でやれているのでしょう?
じつのところ今あなたが着ている服や食べたもの、水、電気、ガスなど、現代社会で生活していくうえで最低限のものですら自分でやれてはいません。
誰かがその仕事に従事することで誰しもが最低限度の生活を送ることが出来るのです。
つまり前提として「誰も自分のことは自分でできていない」のです。
お互いがお互いの得意なことで支えながら生きているのが「社会」というものなのです。
しかしここで人から「自分のことを自分でやっていないのはおかしい」と言われてしまったら、どうなるのでしょう?
「自分のことは自分ではできないのに、やっていないのはおかしい」という自己否定を促されてしまいますね。
それを言う人ですら自分のことは自分でできていないのですから、初めから成立しない話なのです。
つまり「自助」とは「自分のことを自分でやる」と自分で決めて、自分の意志で自由に努力すること。
そうして身に付けた力で人を支えて初めて成り立つものなのです。
誰かに言われてやらされるものではない訳ですね。
ベーシックインカムでお金をもらえれば幸せ?
ここまでの話をまとめます。
ベーシックインカム → 国から定期的に(例えば毎月)お金がもらえる制度
ただし社会保障政策は大幅削減もしくは全廃が前提
「お金はあげるから、後は自分で何とかしてね」
公的扶助 → 自立することを前提に、国が最低限の生活の保障をするシステム
国の最高法規である「憲法」によって国が果たすべき義務に裏付け
「あなたが自分の力で生きていけるよう国が支えていくよ」
自助 → 自分で「自分のことは自分でやる」と決めて努力すること
人の自由意思と支え合いによってのみ成立する
「自分のことは自分でやりたい」
そしてベーシックインカムには「公的扶助の減退(≒自助の強制)」といった問題がある、というお話をしてきました。
国は本来、憲法に定められた生存権(日本国憲法第25条)を全うすべく生活保護法に則って公的扶助を行う義務があるわけですが、ベーシックインカムによる「保障の一元化」がなされた場合、国が行う公的扶助はそれまでと比べて減退することになります。
なにしろベーシックインカムは「社会保障政策は、大幅縮小または全廃することが前提」なのですから、年金・介護・医療・子育てなどの費用がごっそり削られたり無くなったりするわけです。
すると介護保険制度は財源の半分が税金から賄われていますから、その税金のうち25%の国の負担分が大幅縮小及び全廃となれば利用者の負担増は免れません。
それに加えて年金や医療などの分野も併せて削減ないし全廃となるわけですから、定期的にお金がもらえるからと言って国民にとって幸せとは言い切れないわけですね。
「担い手」は去り、自助は強制される
そのうえ、社会保障への費用が十分に行き渡らなくなればサービスを提供すること自体難しくなります。
たとえば介護保険サービス提供事業者がこれまでと同じ利用料でサービスを提供しようとした場合、利用者の自己負担額を国から削減された分だけ増やさざるを得ません。
しかしベーシックインカムによって「保障の一元化」がなされた場合年金などが削減ないし全廃されているわけですから、利用者に十分な収入がなく負担できる額はこれまでよりも少なくなります。
そうなれば利用料を下げざるを得なくなりますから、サービス提供事業者は十分な運営資金を確保できなくなります。
その状態が続けば事業撤退を余儀なくされますし、その中で残ったとしてもサービス利用料を上げて「お金が払える人だけにサービスを受けてもらう」流れとなりますから、サービスが必要な人に届けられなくなる問題が出てきます。
またそのあおりを受けて介護士など「社会保障費(税金)から給与を得ている職業」は軒並み給与を下げられる状況となり、その職を続けることすら困難になるでしょう。
担い手が少なくなればその分野の仕事は自然淘汰されていく(無くなっていく)ことになりますし、介護士などの福祉従事者がいなくなれば、高齢者や障害者などの介護・福祉サービス利用者は明日生きていくことすら厳しい状況に追い込まれます。
しかし国はその状況を「自分でなんとかして」と言います。
ベーシックインカムで最低限のお金は渡しているのだから、そのお金を使って自分でなんとかする。
足りない分は自分で稼いで補い、足りないサービスは地域で提供されるよう自分でなんとかする。
国が掲げる「自助」とは、そういう意味合いを持ちます。
ベーシックインカムをもらうと決めた時点で「国民はそのことを受け入れた」とみなされるのですから、異議を申し立てるのであれば改めて選挙で代表者を選出して政治を変えていくことになります。
そしてその間にどれだけの被害が出ても「自己責任」で片づけられてしまいます。
「自助を強制する社会」とは、このような事態を招く可能性があるのです。
なお障害者に至っては2018年に「障害者雇用水増し問題」にて、障害者雇用に関する公的機関による不祥事が発覚しています。
障害者雇用水増し問題(しょうがいしゃこよう みずましもんだい)とは、2018年に発覚した雇用に関する不祥事で、省庁及び地方自治体等の公的機関において、障害者手帳の交付に至らないなど障害者に該当しない者を障害者として雇用し、障害者の雇用率が水増しされていた問題である。
障害者雇用水増し問題 ‐Wikipedia‐
障害者雇用においては「働きたくてもなかなか働けない現状」というものがあるうえに、公的機関において障害者雇用が妨げられていたという事実は憂慮すべき問題です。
「自分で何とかして」と言いながら「自分で何とかさせない」状況を生み出していたわけですから。
社会保障のないベーシックインカムは必要?
このような状況を踏まえたうえで、一介護士として僕がどう考えるかをお話しします。
単純な話「社会保障を削減ないし全廃したベーシックインカム」が「自助を強制する社会」を生み出しかねないわけですから、
① 社会保障を削らないベーシックインカムを行う
② そもそもベーシックインカムはいらない
のどちらかにすればいいわけです。
ただ現状の社会保障ですら財源確保に追われているにも関わらず、そこにベーシックインカムを足すというのは現実味がまるでありません。
よって考えるべきは②の「そもそもベーシックインカムはいらない」になります。
人々がこれだけベーシックインカムを話題にするのは、先述した「一律10万円の特別定額給付金」が国民に支給されたことによってベーシックインカムが現実味を帯びてきたから、と推測されます。
「一度10万円を支給できたんだから、やろうと思えばできるんじゃない?」と思ったわけですね。
またその使い道は、ニッセイ基礎研究所の「新型コロナによる暮らしの変化に関する調査1」によると「生活費の補填」(53.7%)が多く、次いで、「貯蓄」(26.1%)だったと出ています。
ニッセイ基礎研究所の「新型コロナによる暮らしの変化に関する調査1」によると、圧倒的に「生活費の補填」(53.7%)が多く、次いで、「貯蓄」(26.1%)、「国内旅行」(10.1%)、「家電製品やAV機器の購入・買い替え」・「マスクや除菌製品などの衛生用品の購入・買い替え」(いずれも9.7%)と続く(図表1)。なお、「辞退した・するつもり」(2.1%)や「寄付」(1.5%)もわずかながら存在する。
特別定額給付金10万円の使い道 ‐ニッセイ基礎研究所‐
「生活費の補填」については、そもそも特別定額給付金がコロナ禍で仕事が減ったり無くなったりした人の生活を支えるために配られたものですから、ここが多数になるのは想定通りでしょう。
気になるのは次の「貯蓄」です。
経済の活性化を促すことを期待しての「特別定額給付金」だったわけですが、約4分の1が「財布にしまわれる(経済効果が生まれない)」という事態になったのです。
「先行きが不安だから将来のために取っておこう」という心理が働いたものだと推測できますが、これは特別「コロナ禍だから」というわけではなさそうです。日本では依然として「預金」に対する信頼感が高く、「とりあえず銀行にお金を預けておけば大丈夫」と考える方が多いのです。
であれば、です。
コロナ禍のような緊急事態でも「貯蓄」するのですから、平時にベーシックインカムを導入した場合は生活や状況に余裕がある以上、さらに「貯蓄」する人が増えると予測されます。
それは「人の安心(不安)に対して『使われないお金』を毎月定額で払い続ける」ことになります。
本当に必要な、人の生活を支える社会保障を切り捨てたうえで
それならば今の社会保障を続けた方がよほど安心して暮らしていけると思いますが、ベーシックインカムの導入に国が動くとなるとその理由は「財源」にあり、「社会保障を無くしてお金を渡した方が財源少なくできるよね」という発想からになると考えられます。
それは「国民のため」ではなく「国のため」ということですから、ベーシックインカムに関する動きは福祉に携わる者だけではなく、誰もが注意深く見ていった方がよさそうですね。
ベーシックインカムにみる「自助」のあり方
長くなりました。もう一息です。
公的扶助のところでもお話ししたように、生物というものは「自分で生きる」ことが前提です。
どのような生物も自分の力で生きているから今こうして生きていられるのであって、それは人も例外ではありません。「人だけが特別に他者から支えてもらえる」わけではないのです。
裏返せば「生きているだけでその人には自分で生きる力がある」と証明されているのですが、今の世の中は「自分で生きる」という解釈の幅がせまいため、その見識の中で「自立」「自助」を誤解しているように見えます。
「なんでもかんでも自分でやることが自立だ!」とか
「自分のことは自分でやりなさい!」とか
それを言う人自身が「自分でできていない」ことを他人に強制してしまうから、つじつまの合わない、おかしなことになるのです。
こうした誤解をしたままでベーシックインカムが導入されたとき、この「おかしなこと」は拡大していきます。
これまでの公的扶助によって(過不足はさておき)最低限の生活を保障し、その人が自分で生きていくことを支える仕組みは国の責任として行えています。
しかし社会保障のないベーシックインカムでは、国の責任を放棄して「あなた自身の責任」として「自分で生きていく」ことを強制するようになります。
それは、生きづらい世の中です。
「自分のことは自分でやりなさい」と言われ、困ったときには助けてもらえない社会なのですから。
「自助」とは、自分らしく生きる権利です。
「自分のことは自分でやりたい」と自分で決め、自分の意志で努力することで得られる「自由」なのです。
そしてその自由がもたらす心の安らぎが「人を助ける」やさしさにつながっていくのです。
今回の記事「ベーシックインカムに見る「自助」あり方」とは、「そういったやさしさに気づいてほしいなぁ」という僕の想いで紡いだ『視点(しるし)』なのです。
僕自身は前田裕二さんの著書『メモの魔力 The Magic of Memo (NewsPicks Book) [ 前田裕二 ]』のアレンジメモで毎日1つ以上メモを取り、「分析・検証・実践」を行っています。
そのメモをInstagramを始めとしたSNSで発信していますので、よかったら参考にしてみてください。
メモが見たい方はこちらから ↓
ナカさん@しるしの魔術師(@magicofsign)のinstagram
例えば今回の記事に対してもメモを取っています。
こうした積み重ねが「現在」を捉える目を養っていきます。
これまでお話ししてきた「自分と向き合う」ことを大切にし、あなたにもぜひ『メモの魔力』のメモ術を始めてもらいたいと思います。
きっかけは、ここから。
紀伊國屋書店限定で「前田裕二『メモの魔力』モデル MOLESKINE クラシック ノートブック & ジェットストリーム ピュアモルト 4&1」も販売されています。
販売ページ:紀伊国屋書店
『メモの魔力』モデルの元となったノートやボールペンも紹介します。
【併せて読みたい記事】
・想い紡ぐ介護士になるまで
・自分と向き合おう! ①分析してみよう
「想い紡ぐ介護士、ナカさんのブログ」では皆さんのコメントをお待ちしています。
よかったらこの記事へのコメントや感想などをご記入ください。
またこの記事をTwitterやFacebookでシェアしていただけるととても嬉しいです。
下の「シェアする」のアイコンをクリックすると簡単にシェアできますので、
よかったら使ってみてください。
コメント