介護・福祉を続けていけば「利用者さんとの別れ」は確実にやってきます。
それが今生の別れともなれば、介護士として受けるダメージも大きくなります。
今回は利用者さんとの別れ、それも「死別」をテーマに介護士としてどう受け止めたらいいのかを経験談を交えてお話しします。
また内容が繊細なだけに読む人を選ぶかと思います。
題目やテーマから感じる印象で「あ、私にはまだ早いかな」「あまり深く考えたくない」ということもあるかと思いますので、感じられたままに判断していただければと思います。
収益化に傾倒する施設がもたらすもの
僕が初めて「利用者さんとの別れ」を経験したのは介護福祉士の資格を取り、有料老人ホームで働き始めてからしばらくのことでした。
その間派遣社員時代に経験したような「人とのつながり」が有料老人ホームでは感じられないことに戸惑いながらも、「まぁ、焦らずにやっていこう」くらいに思いながら仕事をしていました。
これまでに「最初は『こいつは大丈夫か?』と見られていたけど、半年もしないうちに『なくてはならない人』になっていた」という経験を重ねてきましたから、有料老人ホームでも同じようになれるだろうと楽観視していたわけですね。
しかしこれまでと違っていたのは派遣社員のときが「通所型」の施設だったのに対し、有料老人ホームが「入所型」だったことです。
通所型 → 利用者が通う施設
入所型 → 利用者が住まう施設
読んで字のごとくなのですが、施設に通うのか住まうのかでは「時間・空間」の感覚がまるで違います。
それは「生活の場面が切り替わるか(メリハリがついているか)」であり、入所型の施設は(創意工夫する施設でない限り)閉鎖的な時空間となります。
毎日同じ時間に起きて、食べて、寝る。その繰り返し。
施設が収益化を望むほど最低限の生活を保障したうえで「ある程度」住んでもらうよう設計します。
そこでは品質を保つことには消極的で、費用がかさばらず、快適になり過ぎないギリギリのラインを維持しようとします。介護サービスを必要とする人が多い以上お金を掛けずとも入居する人がいるわけですから、施設側が必要以上のものを提供する理由がないのです。
こうした収益化に傾いた施設で暮らす利用者さんは、閉塞感にむしばまれるようになります。
生活するための最小限のサービスは受けられるものの、同じことを繰り返す毎日には「いきがい」や「やりがい」といったものは生まれません。
何も求められず、淡々と生きて、ゆっくり衰えることを望まれる。
いずれ来る「お迎え」が救いになるかのように。
こういった背景のなか、僕は「初めての別れ」を経験しました。
「有限」を知る
その「別れ」は、突然でした。
働き始めてから1~2か月の頃、ようやく利用者さんの顔と名前が一致するくらいのときで、「その方」との思い出もまだありませんでした。
覚えているのは名前が珍しかったことと、常に口をもごもごさせていたこと。それにご飯が大好きなこと。会話は少なく、食べるとき以外はベッドで過ごされていたことくらいです。
ある日の朝、夜勤者の判断ミスにより37度台の熱だったにも関わらずその方を車いすに移して広間に連れ出してしまいました。
その方には珍しく食事の進みが全くなく、異変に気付いた早番の職員が熱を測ると38度台まであり、急いで通勤中の看護師に連絡、対応に勤しみました。
看護師が到着し、容体を確認するや否や病院へ緊急搬送。
しかしその方が再び施設に戻られることはありませんでした。
その方の「別れ」に対し、当時の僕には悲しみを感じる時間すらありませんでした。
緊迫した空気の中であまりに目まぐるしく事が進んでいき、何が起きているのか理解することができませんでした。
ただその後の朝礼でその方の訃報を聞き、家族さんが退所の手続きと荷物の搬入を終わらせた後、その方の居室が空になったとき初めて「もうここには帰ってこないんだ」という実感が湧きました。
そのときの、胸に広がった何とも言えない重いもの。
それは「時間さえあれば良くなる」と楽観的だった自分に対しての罰とも言えて、「時間や能力は有限で、できることは限られている」という現実を思い知るには充分な…過ぎた出来事でした。
別れは訪れる、何度でも
僕がその施設で働いた約5年間、数十名の方を見届け、見送っていきました。
どれだけその人に寄り添った介護をしてきたとしても、いつかは別れが訪れる。
不意打ちに、一方的に、そして無慈悲に。
一度の別れでも胸の中に重いものが溜まっていくのに、また一日でも長く一緒に過ごしていきたいと願うのに、「別れ」はいつだって容赦なく訪れました。
先輩介護士の中には「いつかはいなくなってしまうんだから、そんなに入れ込まない方が良いよ」とアドバイスをくれる方もいました。僕が一つ別れを迎えるたびに落ち込んでいるのを見て励ましてくれたのです。
ただその先輩の働き方は、利用者さん一人ひとりという「ヒト」と向き合っておらず、ただ自分に課せられた介助という「コト」をこなしているだけに見えたので、内心「こういう風にはなりたくないな」と思いました。
たとえ別れが確実に訪れるのだとしても、その人と向き合うことを諦めたくない。
そうしてしまったら、あまりに寂しいから。
何も言わずとも、寂しいという気持ちが伝わってきてしまうから。
だから僕には、その寂しさから目を逸らすことが出来ませんでした。
この寂しさから目を逸らしてしまったら何か大切なものを失ってしまうように感じられたのです。
「綺麗事」を追い切れるか
とはいえ、です。
「その人に寄り添った介護を」とか「一日でも笑顔で過ごしてもらえば」というものは、折り合いをつけた介護士さんからすれば「綺麗事」ですし、「文章だから格好つけて伝えられるんだ」と思われても仕方のないことなのでしょう。
実際すべての方に対して等しく向き合うことは物理的に不可能でしたし、最後には僕の心のほうがもたずにストレスで心臓を傷めて倒れることになりました。
「別れ」を前に、僕はあまりにも弱く、無力だったのです。
倒れる数か月前には自分の感情が感じられなくなって、何のために、誰のために介護をしているのかわからなくなっていきました。ただ求められることをこなすだけの装置になって一日でも、誰か一人でも心安らかになれるなら、どんなに
どんなに良いことなんだろう、と。
ただそれだけの為に、一日ごとに壊れていく心と体を引きずっていました。
当時僕と一緒に働いていた人からは「あんた、死んだ魚のような眼をしとるよ!」と心配されて、実際に鏡で自分の眼を見てみると光が一切灯っていませんでした。
そんな自分に対して「確かになぁ」と乾いた笑みを浮かべることしかできませんでした。
「綺麗事」を求めるのには代償が必要で、多くの人はその代償を払いたくなくて諦めます。
そうして代償を払った先でも「綺麗事」が得られないと、払う前にきちんとわかっているから無理をせずに諦めることが出来るのです。
ただ僕には、それがわかりませんでした。
代償を払えば「綺麗事」に近づけるのだと信じて疑わなかったから、その代償に自分の命を差し出すことになってもそこには十分な価値があるのだと感じていたから「綺麗事」と追い切ろうとしたのです。
その先にある、ありもしない幸せを願って。
では、「利用者さんとの別れ」とどう向き合えばいい?
随分救いのない話をしてしまいましたが、ここまでが「前置き」です。
利用者さんとの別れと向き合わなければ、別れに慣れた介護士さんの心と体は救われるのでしょうが、利用者さんは自分と向き合えてもらえない寂しさを抱えたまま人生を終えることになります。
かといって向き合えば介護士が抱える悲しみが大きくなりすぎて、いずれ自滅します。
この二択を突きつけられれば誰でも前者「別れとは向き合わない」を選ぶでしょうし、それ自体は責められるものではありません。
生物として「自分の身を守る」のは当たり前の事ですし、それを責めてしまった場合後者の道を歩むか、それとは別の「誰からも信用されない」孤独の道を歩むか、しかなくなってしまいます。
それらを踏まえたうえで、今の僕はどういう道を選んでいるか。
それは「利用者さんと向き合わない」という風になりたくなくて、しかし向き合った結果一度は心臓を傷めて倒れたような人間が何を選ぶのかということですから、その選択は「利用者さんとの別れとどう向き合えばいいのか」と悩むすべての介護士さんにとって一つの答えになるかと思います。
僕は「別れに慣れて、悲しむ」という両立の道を選びました。
そもそも「利用者さんとの別れとどう向き合うか」は「慣れる」か「悲しむ」かの二択ではないですし、慣れても悲しんでもいけないわけではないのです。
慣れなければ心身ともにつらいのであれば、慣れればいい。
別れが悲しいのであれば、悲しんでもいい。
そしてその二つともを選んでいいのです。
なぜなら、もしあなたが介護士として利用者さんに親身に寄り添っているのなら、そんなあなたが思い悩む姿を利用者さんは見たいと思わないからです。
それも避けようがない「自分との別れ」によって悲しんでしまうなら、なおさら。
「どうか悲しまないで」
「あなたと一緒で幸せなんだ」
「別れは来てしまうけれど、あなたと居られて嬉しかった」
たとえ言葉にできなくても。
目が合わなくても。
手に力が入らず、身体のぬくもりが少しずつ冷めていくのだとしても。
最期を迎える自分にも寄り添ってくれるあなたに対して、そう願わずにはいられないのだと。
どうか、その想いを受け取ってください。
そして悲しみに暮れる心を温め、「もう大丈夫」と思えたならまた次の方に関わってみてください。
「でも、また悲しい思いをするかもしれない」
「この方ともいずれ別れなくてはいけない」
もし頭の中にそんな思いがよぎったとしても、同時にあなたはいただいた想いを呼び起こすことになります。
「確かにあの方との別れは悲しかったけど、それだけじゃない」
「別れは来る。でも別れる前から悲しんでいたら、目の前の方を悲しませてしまう」
「あの方との日々は楽しかった。だからこの方とも楽しく過ごしていきたい」
このように「過去の想い」と「現在の状況」を照らし合わせたとき、初めて「肉体」と「精神」は別なのだと心に落とし込むことが出来ます。
「無限」を知る
もしその方がいなくなったとしても、それまでの日々は確かにあなたの中にあって。
あなたが心と体を動かすとき、その言動にはその方と紡いだ想いが宿っているのです。
そして紡がれた想いに触れたとき、あなたが介助する目の前の方もまたその想いに心温めます。
「この人と一緒にいるとなんだか安心できる」と思ってもらえるのです。
次第に「他の介護士さんでは拒否されてもあなたなら受け入れてもらえる」ということが起きます。
あなたと一緒にいる方はなんだか笑顔が多くて、夜も薬を使わずぐっすりと寝られるようになります。
そんな姿を見てあなたもまた心温めることでしょうし、それは介助に良い影響を与えます。
そうしてお互いを想い合う日々を過ごすうちに、ふとした瞬間「その方」のおもかげが見えてきます。
そのとき、ハッと気づくのです。
自分の中には確かに「その方の想い」が息づいている。
「肉体」がなくなったとしても「精神」はずっと一緒にいてくれるのだと。
それは何物にも代えがたい、その方からの「祝福」です。
「自分との別れ」に向き合ってくれたあなたに対する感謝そのものです。
だから。
「別れ」は慣れ、悲しむものであっても恐れるものではありません。
想いは無限なのだから。
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