今回はブレイクダウンとして「人と話せなかった僕が、人と関わる福祉で10年以上働く理由」についてお話していきます。
大本は以前の記事想い紡ぐ介護士になるまでに書いていますので、その深堀にあたる内容になります。
まとめでは「福祉をするために必要な素質」についてもお話していますので、ぜひ最後までご覧ください。
福祉に向いていない自分
僕が明確に福祉を意識したのは日本福祉大学に入学したときになりますが、とはいえ、それまでに福祉に強い思い入れがあったかと言われると決してそうではありませんでした。
むしろ人との関わりを極端に断とうとする当時の僕からすれば、絶対に踏み入れてはいけない領域だったのです。
当時は人と顔を合わせることすら苦痛でしたから、そんな僕がどうやって人と関わる福祉に携わるというのか。僕自身にすら答えはありませんでした。
僕がなぜ日本福祉大学を受験し入学したのかと言われれば、親の面子を保つのと「物珍しかったから」です。
それまで福祉の「ふ」の字も知らなかった僕が、高校三年生二学期のころ大学受験でどの大学を受けるかを探しているうちに「日本福祉大学」という字面を見つけました。
「日本の福祉の大学ということは、これはすごい大学に違いない」と思ってさらに調べてみると倍率も高く、高校生活の締めくくりとして受験すればこれまで高い学費を出してきた親へせめてもの報いになるだろうと考えたのです。
というのも当時の僕はネガティブまっしぐらで、大学受験どころか自分が二十歳まで生きるつもりもなかったのです。
時は1999年。ほどよくノストラダムスの大予言が流行していた時期と丸被りしていましたから、当時の空気感を覚えておられる方には「ああ~…」と察していただけるかと思います。
『ノストラダムスの大予言』(ノストラダムスのだいよげん)は、1973年に祥伝社から発行された五島勉の著書。フランスの医師・占星術師ノストラダムスが著した『予言集』(初版1555年)について、彼の伝記や逸話を交えて解釈するという体裁をとっていた。その中で、1999年7の月に人類が滅亡するという解釈を掲載したことにより、公害問題などで将来に対する不安を抱えていた当時の日本でベストセラーとなった。実質的に日本でのノストラダムス現象の幕開けとなった著作であり、オカルトブームの先駆けともなった。
Wikipedia
この予言を信じていたわけではありませんが、世界が終わるかのような空気感と僕自身のダメっぷりが相まって自分がこの先生きていけるとは到底思えなかったのです。
学校に友達が一人もいない。
人と顔を合わせるのもつらい。話すなんてもっての外。
進学校に行っておきながら勉強もそれほどできない。
自分の良さなど何一つわからないまま、それでもこのまま成果も上げないまま自分の人生が終わるのはこれまで育ててくれた親に申し訳ない。
なにか「ここに挑んでもダメだった」みたいな証があれば、親が自分の息子の話を世間でするときも周りを納得させられる材料になるのではないか。
そんな理由で日本福祉大学に受験し、何の縁か合格をいただき入学する運びとなったのです。
福祉に誘われて
僕が福祉分野に足を踏み入れたのは、神秘的な話で言えば「そうなる運命で、なるべくしてなったから」とも言えますし、現実的な話をすれば「得意科目で固めた結果うまくいったから」とも言えます。
今の自分から俯瞰してみれば「なるべくしてなった」感じはありますし、進学校に行って勉強がそれほどできていなくても、全体から見ればできていたほうだったのかもしれません。
高校三年間、毎朝の小テストは8割合格で居残りしたのは3回のみ。居残るのが嫌で小テストのための勉強を、家や通勤時間をつかって毎日三時間は費やしていました。
加えて授業でわからないところは先生に聞きに行ったり、興味のない授業はほどほどにして独学で倫理を学んだりと、もしかしたらそれなりに勉強していたのかもしれません。
「しれない」というのは当時の僕には自分の勉強量を比べる相手がいなかったので、どこまでやっていれば勉強したと言えるのか、その基準がわからないのです。
このことは勉強に限らず、ほかのすべてに当てはまります。
人と関わらない人間には「比べる相手がいない」ことから、確かなものが何一つないのです。
どれだけ頑張ったとしても実感がなく、またそれを確かめてくれる相手もいないことから「確かにあなたにはこれだけの力がある」と認めてもらう機会がありません。そうなれば当然自信も持ちようがなく、常に劣等感にさいなまれるのです。
どちらかというと、僕は福祉を目指す人間というよりは福祉に助けてもらう人間だったのです。
しかし人に助けを求めることなんて怖くてできないものですから、自分から福祉に飛び込んで行って誰かに助けてもらおうとしたのかもしれません。
少なくとも当時の僕にはそのような意図はなく、ただ誘われるように福祉へ引き寄せられていったのでした。
そしてそんな身勝手な思いが叶えられるはずもなく、僕は大学二年の夏に大きな挫折を経験するのです。
福祉を学び、福祉を避け、そして…
挫折による痛みは一年半に及び、その間は大学に一切行きませんでした。
それまでよりもさらに人と会うのが恐ろしくなり、電話の着信音だけで神経がかき乱されるような状態だったのです。
それでも大学の学費は自分で稼がなければいけませんでしたから、無理やりバイトには行きました。平静を装うために体力と精神力を使い、家族に内緒で家に引きこもる日々が続いたわけです。
いろいろ合って再び大学を行く決意をし、この一件を機に生まれ変わる決意をするのですが、それはまた別の機会にお話しします。
今回の話で重要なのは、当時の苦しみが一方で僕に心理・精神分野への興味を引き出したことです。
一年半の逃避の後再び大学へ行くことを決意した僕は、自分の心の弱さと向き合うために心理学の本をはじめ、哲学や宗教、歴史や科学など様々な本を読み込むことにしました。講義も精神(障害)分野を主に学び、心の動きを丁寧に追っていく今のスタイルの土台を築くことになります。
ところが、当時はそこまで一生懸命学んでも「福祉は自分には合わない」と再確認するばかりでした。
どう合っても人と関わる仕事は自分には苦痛だし向いていない。どうにかして避けられないかと考えて大学四年生の就職活動は一般企業ばかり受けました。
100社はエントリーしてその半数の説明会に出向き、さらにその半数面接をして落とされ、数社最終面接までこぎつけ、そして全て落とされたのです。
今にして思えば「人と関わることが苦痛」という時点で会社の戦力にはなりにくいわけですから、面接してもらえただけでもマシだったのでしょう。
事実、とある大手企業の面接では僕の挙動不審っぷりに口元の端を片方だけ上げる、ドラマでしか見ないような嘲笑を隠しもせずに浮かべる面接官もいました。僕は到底社会に出て仕事ができるような人間ではなかったのです。
残された道は
卒業間近になっても就職が決まらなかった僕は、いよいよ追いつめられました。
二年留年してまで大学を卒業しても就職できないのでは、何のために無理を重ねて卒業まで頑張ってきたのかわかりません。働かないのであれば、大学を卒業などせずに中退して家に引きこもっていたほうが僕の人生は早くに決着がついていたでしょう。
そうしなかったのは、生まれ変わると決めたから。
僕にとっての現実がどれだけ厳しくても、立ち向かおうと決めたから。
人と同じようにはできないけれど、せめてこの社会の片隅で自分が生きていてもいいような何かが欲しかったから。
だから追いつめられて、もうどうしたらいいかわからなくなったとき。
僕に残されていた道はやはり福祉だったのです。
卒業式を終えてすぐに「うまれて初めて学費以外で好きに使えるバイト代」をヘルパー2級の講座へ使いました。
講座そのものは簡単でしたが、そこでも「人と関わる」ことがハードルになりました。
ただそれまでと違っていたのは、ヘルパーを志す人はそれまで出会った人たちよりも優しかったのです。
僕が緊張した面持ちで介助の練習をしても、不審に思わず微笑んでくれました。
それどころか福祉大の出身ということもあって、知識でわからない部分を教えるととても喜んでくれました。
それまでの厳しい現実にはなかった、優しい世界がそこにはありました。
コミュニケーションが取れないなら
ヘルパー2級講座も実習を残すのみとなり、認知症の方が集まるフロアで実習を受けた時でした。
午前中に体操をして午後はリラクゼーションをして終わる一日で、僕は相変わらず話すのに四苦八苦して、認知症の方とのコミュニケーションを満足に取れずにいました。
体に染み付いた「人と関わることへの恐怖」はそう簡単には治りません。
声をかけるのにすらためらいがありますし、かけた後もどうすれば良いか迷ってしまいます。
いっそのこと相手が話し切るまで聞き切ってしまえば良いんじゃないか。そう思ってハッとなったのです。
そうだ、「聞く」んだ、と。
大学の講義でコミュニケーション論を学んだ際に「聞く」コミュニケーションについて
「コミュニケーションというのは話し手が一方的に話すのではなく、相手との言葉のやり取りが重要です。話の区切りで話し手と聞き手が自然に交代する訳ですね」
講義を受けた時はまだ「コミュニティの外」に固執していたので「ふ〜ん」ぐらいで済ませていましたが、今まさにその教えが役に立つのではないか。そう思ったのです。
延々と繰り返される話の合間に、僕は適度に相づちを打ってみました。
首を縦に降ったり「そうなんですね〜」と言ったり。
するとそれまで同じ話をしていた利用者さんが「あなたもそう思う?」と聞き返されました。
話が変わった!
僕はここぞと言わんばかりに「そう思います」と受け止めます。その瞬間、それまでぼやけて見えたその方の目に光が宿ったように見えました。
そして、次の一言から会話は別の方へ向かっていったのです。
「そうでしょう? やっぱりあなたもそう思うでしょう?」と。
人のつまずかない所につまずける「強さ」
あの瞬間、僕は福祉に自分の居場所を見つけました。
それまでは同じ話を繰り返していた方が堰を切ったかのように楽しく、自分の話したい話を始める姿に「施設の中も世間というコミュニティから隔離されている場所なんだな」と感じました。
でなければ、なぜ「話を聞いてもらえる」だけで嬉々としていられるのでしょう。
それは閉ざされたコミュニティではコミュニケーションの機会が十分に与えられていないからに他ありません。
人と会わなければ人と話すことはないのですから、施設が内に閉ざされるというのは「その人らしさ」を保ち、育むという観点からは問題があります。
毎日のように同じ人と同じような話をするだけでは見当識にも狂いが生まれますし、そのような刺激のない生活では自我を保つ意味すら失われかねません。
だからなのでしょうか。
僕には自分とその利用者さんが同じに思えたのです。
これまで人とうまく関われずにコミュニティとコミュニケーションから隔離された僕と、施設の中に入ることで世間から隔離されてしまった利用者さんの姿が重なったわけです。
そうなるとコミュニティから切り離される孤独感や、コミュニケーションが取れない苦しさを、僕は他の誰よりも共感できるという事実に気づきました。
なぜなら、同じような孤独をずっと感じてきたから。
同じような苦しみにずっとずっと悩まされてきたから。
この孤独と苦しみでつまずいてばかりだった人生が、ここに来て一気に反転したのです。
僕のどうしようもない弱さは、強さだった。
まとめ ~自分の弱さを知る~
いかがだったでしょうか。
僕のような福祉に向いていなかった人間でも、福祉に携わってもう10年以上になります。言い換えれば誰もが福祉に向いているという話ですね。
僕自身、実際に介護の仕事を始めてからも七転八起して今に至るわけですが、そのあたりの詳しい話も追々していきたいです。
さて、これで終わってはただの長話ですから、最後に一つ。
もし僕が「福祉をするために必要な素質はなにか」を問われたら、こう答えます。
「自分の弱さと向き合えるかどうか」だと。
自分の弱さと向き合えない人は、相手の弱さからも目を逸らしてしまいます。
それは「個人の尊重」「利用者本位」「自立支援」といった介護士としての基本を守ることができないということですから、福祉に携わる人間の素質として「自分の弱さと向き合う」ことは欠かせないと思います。
ただこれだと言葉が強すぎますから、もう少しマイルドに言えば「悩めるかどうか」になります。
目の前の光景を当たり前と捉えて見過ごしていないか。
利用者さんの大小さまざまな問題を「そういうもの」と受け流していないか。
悩むとは「気に留める」ということであり、相手のことを気に掛けている、ということでもあります。
「私はあなたに関心がある」というメッセージを相手に伝えられるわけですから、福祉に携わる者として「悩めるかどうか」はとても大切な素質なのです。
今回の話があなたにとって有意義でありますように。
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