前回の記事「介護の資格ってどこまで必要?」では、資格の定義から現存の資格を捉え直したとき
「介護の資格は取る『必要』はなく、取る『目的』がある場合に取ればいい」
というようなお話をしました。
「何がしたいか」を見失って「こうすべき」という周囲の論理で資格を取るのは危ういですよ、とも。
今回は「それでも資格があった方が良いんじゃない?」と思う方に、介護の仕事のために8つの資格を取った僕が実際にどれだけのものを費やしたのか。
そのエピソードの最後になります。
資格のために命を捧げられるか
心身症による心臓の痛みを抱えながら受ける研修というものは、文字通り「命がけ」でした。
冷静さを保とうとすれば呼吸は深くなるので、怪しまれないようマスクをつけて研修を受けました。
もっとも「インフルエンザにでも罹ってるんじゃないのか?」と怪しまれる可能性が高くなるだけでしたが、「心臓の痛みと比べればインフルエンザはまだ弱い」という誰も想像できない条件で考えていたものですから、やはり冷静ではありませんでした。
それは万が一自分が倒れてしまっても迷惑を最小限に食い止めるよう人目のつかない場所で休憩したり、極力自分は存在しないものとして行動していたりすることからも明らかで、「生死の境目を意識しながら研修を受ける」というのは尋常ではなかったのです。
それでも、望まれているのなら。
ケアマネージャーとしての自分が組織に必要とされているのならそうすべきだと言い聞かせて、自分の命を捧げて研修に臨んだのです。
誰もそこまでのものを求めていないにもかかわらず。
研修を続けるうちに一つ大きな問題が出てきました。
どうしても施設にある資料が必要になり、一度施設に顔を出さなくてはならなくなったのです。
施設に行けばどうしても心身症で倒れる前の自分を思い出すことになります。
無理を重ねて段々と人間らしさを失っていった自分と向き合わざるを得なくなるのです。
それは心に大きなストレスを与えるだろうと予測できましたし、もしかしたら倒れたときの状態に逆戻りするか、それとも最悪の事態にもなりかねません。
しかしその資料がなければ研修は続けられず、それでは上司からいただいたアドバイスを無碍にしてしまいます。
もし心臓の痛みが癒えて職場に復帰することになれば「どうしてケアマネージャーを取らなかったんだ」という話にもなってしまいますから、上司の顔を立てるためにもここが踏ん張りどころでした。
実務研修を受けてケアマネージャーの資格を取ることが心臓を傷めて倒れた自分が唯一背負える責任だと、そう思っていたのです。
‐幕間‐ 想い惑う
――できることなら逃げ出したい。そう思うのはそれほど罪深いことなのだろうか。
施設に近づくたび心臓の動機が強く、早まっていく。
呼吸は乱れ、酸素欲しさに真顔で口を開いたまま。
…ああ、やっぱり近づくのは危険だ。
こんな有様の自分でも資格を取ることを望まれているのだから頑張らないと。
そうだ、ここを乗り切って資格を取ればまた働ける。まだ居場所があるんだ。
心臓がきしむ。涙がにじむ。
次の瞬間意識が途切れてしまうかもしれない。さっきからそんな不安が拭えない。
息を整えよう。
落ち着けば何の問題もないのだから。
今までだって何とか踏ん張ってやってこれたんだ。
今回だけできないなんてことはないはずだ。
まだ、頑張れる―—
現実は反転する
夜も7時を回ろうという時刻。
息も絶え絶えになりながら施設に到着しました。
自動ドアの前に立つと心臓の痛みがキリリと鋭さを増してきます。しかしここまで来て引き返すわけもなく暗証番号を入力して施設内に入ります。
音に気付いた職員が驚きの声を上げます。
そう言えば事前に連絡を入れていなかったかもしれず、その辺りの記憶を探っていると数人が僕の周りに集まってきました。
「あんた無事だったんかね」と僕の容態を心配する利用者さんもいれば、時に驚きもなく「おぉ」と声をかけてくれる利用者さんもいました。職員さんは職員さんで「大丈夫?」と聞いてくれました。
ただ僕は大丈夫でもなければ元気でもありません。
用件だけを済ませて一秒でも早くここから離れなければ、いつ心臓の痛みが正気を失わせるほどになるか不安で仕方がありませんでした。
なので片言の返事くらいしかできず、それで察してもらうより他ありませんでした。
そうこうしているうちに、たまたまその日僕の代わりに夜勤に入っていた社長さんがやってきました。よく見れば役員さんもパソコンの前で事務処理をしているのも伺えます。
なんてタイミングで来てしまったのか。偶然にしては出来過ぎている。
施設職員だけなら詳しい事情を話さずともやり過ごせましたが、トップ二人と出くわしてしまった以上事情を説明せざるを得ません。
とはいえ、僕は長い間話せるほど状態が芳しくありません。
細かい事情は上司から報告が行っているだろうからと、出来るだけ簡潔にケアマネージャーの資格を取るために資料が必要なことを伝えました。
そうして。
僕の説明を受けた役員さんは一瞬で険しい表情になり、一言こういいました。
「倒れている奴が資格だけ取ろうとするのはおかしいと思わないのか?」と。
「誰かのために」は崩れる
その言葉の意味が、まるでわかりませんでした。
僕はこれまで上司のアドバイスに従って心臓が痛む中、施設のために頑張ってケアマネージャーの資格を取ろうとしてきました。
僕だけのことを考えるならこの状態で無理を重ねて資格を取る意味なんて一つもなく、回復してから休みを取って実務研修を受ければいいだけの話です。
そうせずに頑張ってきたのは、施設側の要求があったからで。
それなのに何故「自分のために資格を取ろうとしている」なんて話になっているのか。
しかも休んでいることを利用しているかのような言い方で、これまでの苦労を、命懸けの想いを穢そうというのか…!
そう思った瞬間、心臓の痛みが一度、気を失いそうになるほど強く襲い掛かってきました。
視界が端から暗くなり、このまま死ぬのではないかという不安がバッと押し寄せて僕を包み込むかのようで、言葉を失います。
そしてその様子を言葉の肯定と捉えたのか、はたまた演技と捉えたのか。
その役員さんは呆れと侮蔑が入り混じったような表情をして立ち去っていきました。
それから自分がどうしたのかよく覚えていません。
気が付けば家のベッドに倒れ込んでいて、外が明るくなっていました。
そうして意識がハッキリしていくと、どうしようもない虚無感が全身に重くのしかかってきました。
指先の一本だって動かしたくないと思うのに、頭だけは回転数を上げていきます。
施設での出来事を巻き戻しては再生し、同じように心臓を痛めていく作業を繰り返していくのです。
その記憶を何度も見て、何度も心臓を痛めつけられる中であの時何が起こったのかがおおよそわかってきました。
単純に連携不足だったのです、この一件は。
上司は役員等に報告しておらず、役員もその場の状況から僕が現状を利用したと推察したに過ぎなかった訳です。
だとしても、ひどい話です。
一職員が心臓を痛めて倒れ、その最中でも施設のために資格を取ろうという異常事態を「報告しない」という選択をすることも。
報告を受けていないにしても職員を信じるのではなく「こいつは施設を利用しようとしている」と疑うことも。
「そう判断するのが正しい」という異常こそが、あまりに残酷でした。
思い返せば面接の時点でこの施設は「ヒト」を見ていませんでした。
履歴書を見てどれだけ施設にとって役立つ「モノ」かを品定めしていただけだったのです。
責任者十数人集まっても企業理念を暗唱できるのが僕を含めて二人だけということから、職員もまた施設を信用していないことが透けて見えます。
雇用者数と退職者数が同数になるのも入職早々危険を感じ取って辞めていく人もいれば、人が補充されたから遠慮なく辞められると判断した人もいたからでしょう。
各施設では「自分の利権もしくは身体を守る」ために派閥ができあがり、ときに他施設から応援に来る職員に対して「ここのルールに従って当然」という横柄な態度を取る有様でした。
その中でサービス提供責任者に課せられる責務は限度を超えており、あまりのプレッシャーから失踪する人もでていました。そのような姿を見せられれば誰も責任者になりたがらず、責任者不足は深刻化していきました。
もはや手の施しようもなく異常で、その中でもなんとかしようと踏ん張って、努力をして。
自分が頑張れば、犠牲になれば。
たった一日、ほんの一瞬でも利用者さんや職員さんが幸せになれるのであれば。
それならば、自分の身体を壊してもかまわないと本気で思って。
次につなぐ人にはせめて自分よりは楽な環境を作っていくんだと言い聞かせて。
そうやって手にした合格を命懸けで「資格」にしようともがき続けてきたその想いを、ただ一度の「思い違い」で台無しにされてしまいました。
もうこの施設に尽くしたところで一切無駄だと思い知り、その瞬間に退職を決意しました。
エピローグ ~資格は未来を切り拓くために~
その後、心臓の痛みを抱えながらもケアマネージャーの資格は無事取ることが出来ました。
幸い退職を決意してから心臓の痛みは快方へ向かい、研修の妨げになるような強い症状は出ませんでした。
ただ痛みが小さくなるにつれ「躁うつ症状」を引き起こし、それはそれで大変だったのですが、この話はまた別の機会にしましょう。
大切なのは、最後は自分のために資格を取ったということです。
心身ともに痛めて手に入れたケアマネージャーの資格は、僕が心臓の痛みを一旦克服して再就職する際、大いに役立ちました。
絶望的な状況の中でもう一度立ち直るための大きな力になったのです。
ハローワークで求人情報を見れば介護福祉士に加えて居宅介護支援専門員を条件に加えられるわけですから、就職先の多さは弱り切っていた僕の心を力強く支えてくれました。
本当に、本当に頑張った甲斐があったんだと。
あの施設では誤解されたまま僕の想いは穢されてしまったけれど、僕の努力は「資格」が誤りなく、揺るぎなく証明してくれるのだと。
ただ再就職した先でもう一度心臓の痛みを引き起こしてしまい、「自分は相談支援をしたくないのだ」と理解しました。人間関係によってストレスを抱え込んだ結果心身症を引き起こしたわけですから、人の悩みを直接聞いて解決する仕事には向いていなかったのです。
現在資格の更新時期を過ぎても再研修しないのは以前の記事「資格を取るって本当に大切? ⑤資格が保証するもの」でもお話ししたように、資格を持つという「立場」が望みもしない仕事を引き寄せてしまう可能性を断ち切るためです。
その点で「相談支援専門員」も僕のやりたい仕事ではないので状況が許せば更新しませんし、その立場を求められる職場からは立ち去らざるをえなくなります。
仕事よりも自分の命のほうが遥かに大切ですからね。
7回にわたって資格にまつわるエピソードをお話ししてきました。
参考になる話もあれば、現実離れし過ぎている話もあったかと思います。
「いやいや、特殊な例すぎて何の参考にもならないぞ」と思われるかもしれませんが、極端な例を知っておけば「このままいくとどうなるか」が見えてきます。
自分のやり方は目的に合っているか。手段を目的にしていないか。
そう問いかけて軌道修正していけば「資格」は心強い味方になってくれます。
資格というものは「自分のため」に使えば活きますし、「誰かのため」に使えば追いつめてきます。
ですから「誰かのため」という『必要性』で資格を取るのではなく、「自分のため」という『目的』で取ることをお勧めします。
必要性で資格を取るとどうなるか、その末路はもう充分伝わったはずです。
そして目的をもって資格を取るとき、自分の未来を切り拓いていけることも。
あなたが自分の未来のために資格を取ることを祈って。
【併せて読みたい記事】
・想い紡ぐ介護士になるまで
・介護の資格ってどこまで必要?
・資格を取るって本当に大切? ⑤資格が保証するもの
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